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狂ったマスコミから、良心の人士、出でよ!!

狂ったマスコミから、良心の人士、出でよ!!

ジャーナリズムが地に墜ちて久しい・・・。
良心の雄叫びが待たれる!
アセンションとはそう言うことだ・・・。
難しい話ではない!!


 為にする報道がまかり通っている。当事者たちが気づいていないはずがないが、気づいていても声を上げることが出来ない人々がまだ多い。

063011


 それも時間の問題だろう。それがアセンションだ。


 心にもいろいろある。欲得の心も当然、心のひとつだ。低次元の心は、恨み、妬み、嫉み・・・数限りある。数えきれる問題ではないが、一言で言えば、低次元と言うことになろう。


 粗い波動である。脳波で言えば、ベーター波が対応するだろう。一喜一憂する心、勝ち負け損得の心。奪い奪われの心。独占の心。自己中心の心。


 それは常に起伏が激しく、ヤッターという一瞬の歓喜が伴うが、それを失う不安を伴う。


 それで多くの人間がこれまで生きてきた。そして、今も尚多い。


 ところが、又一方で、いつも燦然と輝く、無私大我の心も宿っている。それが良心だ。それを呼び覚ますのは、正しく、アセンションであろう。深い同情、深い慈しみはそれからしか出ない。


 真実を求める心も、それが源流だろう。なぜなら、無私でなければ、真実は見えないからである。分け隔てのない見方(観方)からしか、真実は見えない。それが純粋なる理知と呼んでいるものだ。


 それがメディアで産声(?)を上げたから、うれしい。

 

 

Ntv


 

 きっと、その流れだろうと感じている。一旦、この心の声に耳を傾ければ、もう後戻りは出来ない。それはそれが本流だからである。心の本流は、精妙な波動から、粗い波動に流れいづる。その逆はないからである。


 法とは、水が去ると書いてある。つまり、水の流れは高きより出で、低きに流れる。これが法則である。その逆はない。低地に集まった水は、深く地下に潜るか、浄化して天に還る。天から又、雨となりて、地に注ぐ。これが輪廻である。


 人生において、清き魂として生まれ、世の中の清濁を合わせ飲み、人生を送るが、幼子のごとき魂の輝きをいつか求める人々が居る。それが本当の姿である。それが真の安らぎであることを気づいた人々だ。


 これから多く出るだろう。


 どうせ、死ねば(肉体を離れれば)魂そのものの世界であるから、いずれそのことに直面することになろう事は当然である。しかし、生きてそれを気づくことは、さらに貴重で重要だ。


 生きながらにして平安を得るであろう。


 そう言う時代を、今歩んでいると言うことである。それが、真のアセンションと言うことになる。ベーター波、シータ波、アルファー波、そして、デルタ波と脳波は検知される。いずれも後者ほど周波数が低周波となる。これはどういう事かというと、詳しい専門家ではないが、高周波は粗い波動と言うことになるだろう。


 翻って、精妙な波動と言うことは、あっても無きがごとき、電磁波的には感知されない波動と言うことであろう。


 つまり、


 池に石を投げ込めば、波紋が立つ。波紋が立てば、映る景色が乱れる。それと似たようなもので、粗い波動の脳波であれば、世界が見えないと言うことだ。ベータ波で生きている状態では、脳はほとんど物質的な粗い波動にしか感知しないと考えられる。


 話が少しそれるから、そのあたりに止めておいて、本題に戻る。


 粗い波動に生きているということは、先に書いた低次元に生きていると言うことを意味するのである。だから、本当の意味で心の平安はない。良心からかけ離れた世界に心を置いているからである。


 もう、観念して真実に生きるという事が切望されてくるはずだ。『真理は汝を平安にする。』とはよく言ったモノだ。それに気づく人々は確実に増えている。


 あまりにも現実の世界がそれにかけ離れているものだから、否が応でも、気づかされる人は多くなる。そう考えられる。


 早く出でよ! そう言いたい!


テーマ:

「テレビの原発報道は酷過ぎる」日テレ元報道局ディレクターが抗議の辞任~週刊ポスト2012/06/01号

<書き起こし開始→

震災以降、視聴者が抱いたテレビ報道への不信感を、一番肌身で感じていたのは当事者であるテレビマンたちだった。この3月に日本テレビを退社した元エースディレクターが告白する。


■酷い番組を酷いと言えない。それでジャーナリズムですか?


テ レビ各局が震災後1年の特番を放送した3月11日の翌日、日本テレビ解説委員だった水島宏明氏(54)は周囲に辞意を伝え、古巣を後にした。同氏は 『NNNドキュメント』ディレクターとして「ネットカフェ難民」シリーズなどを制作し、芸術選奨・文部科学大臣賞などを受賞。『ズームイ ン!!SUPER』にはニュース解説委員として出演していた。現在は法政大学社会学部教授となった水島氏が、「報道現場が良くなる一助になれば」と退社の 経験を初めて明かした。

きっかけは、原発報道です。報道局の幹部が突然、「今後はドキュメント番組も基本的に震災と原発のみでいく」と宣 言しました。もとろん、あれだけの大災害ですから報じるのは当然ですが、それだけだと報道の多様性がなくなってしまいします。私のライフワークである貧困 問題は「そんな暇ネタはボツだ」という扱いを受けました。

しかも、NNNドキュメントの企画会議では、「うちは読売グループだから、原発 問題では読売新聞の社論を超えることはするな」と通達された。そんなことを言われたのは初めてでした。先年3月28日に日テレの氏家(齋一郎)会長が他界 しましたが、グループ内で影響力を誇る人物がなくなったことで、読売の日テレに対する影響力がどうなるかわからないという配慮から、そうした発言が出たの かもしれません。

これは日テレに限らず、今のテレビ局全体の問題だと思いますが、プロデューサーやデスクの幹部・中堅社員が、あらかじめ 報道内容のディテールまで会議で決める傾向が強まっています。現場に出る若手社員や下請けの派遣社員は、その指示に従った取材しか許されない。でも、我々 は社員である前にジャーナリストですから、本来は自分の目で現場を見た上で、自ら報道すべきことを判断すべきです。震災以降、現場軽視をますます痛感し、 私は会社を辞める決意を固めました。

震災1周年の日、私は各局の特番を総長から深夜までザッピングして見ていましたが、正直、日テレが一 番酷いと感じた。被災地と直接関係のないタレントの歌を流し、キャスターは被災地を訪れて「復興」を強調するものの、そこには報道の基本である視聴者の教 訓になる情報がない。取材も表面的で、被災地者のリアリティが伝わってきませんでした。そのことをみんな感じていたのに、放送後の報道局会議では、幹部の 「良かった」という声に押され、誰も何も言えなかった。

最後の出勤日となった3月30日、私は報道フロアに集まった同僚に対し、「酷い番 組を酷いと言えない。それではジャーナリズムとは言えない。事実を伝える仕事なのに。もっと議論して、言いたいことを言い合おうよ」と話しました。幹部が 同席していたため、その場はシーンと静まり返っていましたが、後で何人かが「僕もそう思ってました」と寄ってきた。「じゃあ言えよ」って。(笑)


■なぜすぐ爆発映像を流さなかったか

$平和ボケの産物の大友涼介です。

福島第一原発3号機爆発(福島中央テレビ)




水島氏は、現在のテレビジャーナリズムの構造的な問題点を指摘する。

この間の震災・原発報道を通じて露わになったのは、自らの在り様を検証できないテレビ局の体質です。

日 テレ系列の福島中央テレビは震災翌日、福島第一原発1号機の水素爆発の瞬間をメディアで唯一、撮影して速報しました。ところが、その映像が日テレの全国 ネットで流れたのは1時間後のことです。報道局の幹部が専門家などの確認が取れるまで映像を控えると決めたからです。状況が確認できないまま映像を流せ ば、国民の不安を煽って後で責任を問われるという状況になりかねないというわけです。

しかし、影響がどこまで及ぶか分からないからこそ、 本来なら「確認は取れていませんが、爆発のように見える現象が起きました」と言ってすぐ映像を流すべきでした。実際、あれを見て避難を始めた人もいて、国 民の映像にかかわる映像でした。私自身、福島中央テレビの人間から「すぐに放映しなかったのはおかしい」と責められました。しかし、その経緯は未だに社内 で検証されていません。



そ の後も、本社や記者クラブ詰めの記者の多くは、原発事故で信頼を失った後でさえ、国や東電など「権威」の言うことを机に座ってメモするだけでした。発表内 容をそのまま報じるものの、実際の現場に行って、たとえば本当に除染の効果が得られたかどうかを確かめるようなことはほとんどしません。カネと時間と労力 がかかるので、楽な方に流れてしまうのです。

本当に独自性のあるネタを報じれば、かつてのテレ朝系『ニュースステーション』の「ダイオキシン問題(※注1)」のような問題を生みかねないと、先んじた報道を避ける傾向があります。

※ 注1 テレビ朝日系『ニュースステーション』が99年2月に埼玉県所沢市産の野菜から高濃度のダイオキシンが検出されたと報道したことを契機として、同市 産の野菜価格が急落。同市の農家側が損害賠償などを求めて起訴し、テレビ朝日は謝罪した上、1000万円を支払うことで和解が成立した。

ワイドショーの現場では、報道局が撮ってきた映像を使い回し、短時間だけ現地に入るレポーターが番組名のついたマイクを使うなど、見せ掛けだけの独自性で勝負している。

テ レビ報道が「権威」から離れる道もあるはずです。たとえば霞が関の官僚たちを、匿名を許さず「原子力安全・保安院○○課長補佐○歳」というように実名にし て、何を言ってどう行動したか詳しく伝えるだけでも、責任を追及する報道に変わるはずです。事実、すでに地方局ではやっていることなのに、キー局は変わろ うとしない。私はこの現状を変えるため、何色にも染まっていない学生に、本来のジャーナリズムを教えていく道を選びました。

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